呼吸器のようなもの

滋賀生まれ射手座。日々感じたことの備忘録。

:言葉を。 12/24

 

メリークリスマスイブ!!

はりきって鮮血みたいに真っ赤なパンツを職場に履いて行ったら、鮮血みたいなニットの女性が2人もいて、鮮血トリオだった。うちの職場最高。

 

ことのはじまりは、こちらから。

 

この前出会った言葉 - 呼吸器のようなもの

 

 

書くことは私にできる、数少ない創造できることなのだけれど気をぬくとすーぐ遠ざかってしまう。

しあわせにあふれているときはなおさら。そればいいとかわるいとかの判断ではなく、生きているからには惜しみなく自分を遺していくべきだと思う。うまいとか、へたとかは受け取ったひとが判断すればよくて、私は自分にその判断をしてやるべきでない。

 

今日はクリスマスイブ。あまりにもすてきな会話をしたので、うれしくなって書く気になった。

 

おしゃべりの相手をしてくれたのは、私の向かいの席にすわっている事務の年上のお姉さん。普段は他愛のない会話をする程度だけれども、今日はひょんなことから「自分をどう心から喜ばすか」みたいな会話になった。さいしょは逆に自分がむなしいこと、自分が喜べないことをぽろぽろとしゃべりあった。そこで、大きく共感しあえたことが、「人の役に立てていないような感覚はめっちゃつらい」ということだった。楽しさや喜びには、自分以外の誰かが大きく関わっていて、なおかつ「その人が喜んだ=お役に立てた」ときに自分はいちばんうれしいのではないか、という考察。結局自分の喜びは、人の喜びだったという。それがほとんどの人に起こっている喜びの根源だった場合、「喜ばし合戦」が世の中の水面下でしたたかに行われていることになる。「たしかに、そんなところありそうですね」とお姉さんは答えてくれた。出先で大切な人を思い出してお土産を買ったり、なんてめっちゃしたたかな喜ばしだ。この間は大切な人が職場に大量にあったお土産のベトナムコーヒーを、こっそり私の分までもらってきてくれた。私はその人が私を思い出してくれたこともひっくるめて、喜んだ。

 

とにかく、こんなやりとりをイブの昼間に、しかも職場の向かいの席の人とできるありがたさ。私は感動してしまってつい、「こうゆうやりとりのために言葉ってありますよね」と言っていた。お姉さんは「本当に」と言ってくれた。

 

あんまりきれいなやりとりだから、ブロブに書こうと思ってふとちなみに25の言葉シリーズの次はなんだっけと確認したら、「言葉を。」の回だった。

これを偶然と捉えるか、必然と捉えるかで人生のドラマチック加減が大きく変わるとおもう。私はせっかくなので後者をとる。

 

ほんとうに大切なことは、言葉では伝わらないと思っている。だからといって会話や言葉をそこそこにしておくではなく、肚の底の感情を表せるよう、どうにかいちばん近い言葉を見つけないといけない。

自分を遺すということは、きっとそうゆうこと。

 



 

あいしてるよ