吾輩はクィアである
こんなことをいちいち書くのもバカらしいとおもう反面、
ぶっちゃけてしまいたい性癖が勝った。
しかもなんでもない日にさらーっと。
今日の私の心にはミーガンラピノーがいる。
要は、フェミニズムマインド全開モードなのです。
きょうはなんでもない日、
吾輩はクィアである。
クィアを知らないあなたはこっそり検索しておいで。
こーゆうこと?はそーゆう人?と一緒になるときに報告?するものなのかとも思ったけど、
あたし自身のことやしそんなん関係ないわとフェミニストミユが言う。
要は、あたしは全性愛である。
なんとかセクシャルって呼ぶやつだとパンセクシャルになる気がしている。
でもこのセクシャリティのジャンルは「LGBT」以外にしぬほどあるので結構どうでもいい。
ただ、人にわかりやすく説明するならば「この人がすき!」という気持ちに、身体の成り立ちでフィルターをかけることがないということ。
つまり、世界中の誰にだってラブな気持ちになる可能性に満ちているあたし。
めちゃくちゃ最高である。
恋愛遍歴を詳しく書く気にはならないのだけれど、「恋愛はメンズと」という私の中の常識が覆ったのは、大人になってからだということだけ補足説明しておくね。
子どものころから気づいてたとか、思春期にうんぬんとか、そういう方ももちろんいる。
でもそんな早いころからシュッと自分を理解して、位置づけすることのできる人は、クィアの人のうちのどれくらいだろうか。と「当事者」は、おもう。
フェミニストミユに言わせると、「LGBT」も、「マイノリティ」も、「レインボー」も、どこか疎外感があるような。そりゃ人たちに周知して、あるべきはずの権利に気づいてもらわなあかんのやけども。
「LGBT」というパワーワードが、時に「当事者」の愛を霞めるのでは、、とおもう。
たしかにポケットにしっかり持っていた愛を、急にカテゴライズしろと言われる。
はて、、、
愛は、そんなに簡単なのだろうか。
これが私の言いたい、疎外感。
だって異性愛はわざわざ「私は異性愛者やねん」とか言わへんやん。プープー。
マイノリティと言われる人に対して、同情はいらないとおもう。
マイノリティはアイデンティティの一部であり、あたしを纏うファンションのようなもの。
言うまでもなく、これはあたしが言っているだけのことなので、それぞれに求めはるものはちがうからね!
あたしはただ道端に喫茶店があるかのように、扱ってほしい。道端に喫茶店があることは、誰もが想像しうるシチュエーションでしょ?
いい感じなら入ってみればいいし、ピンと来なかったなら素通りすればいい。
日常の友好関係も、こんなニュアンスで築かれているはず。
だからこの文章を読んだあなたが、「喫茶ミユ」に入るかどうかも、フリーダム。
こうやって自分を晒していくことは、すごくストイックに見えるかもしれないけれど、逆にあたしのことを好きでいてくれる人だけが残るので、ストイックの恩恵はすごいのです。
もちろんこの記事の、「全体に公開」のタブをクリックするときはめちゃくちゃ緊張するしこわい。
でもひっそり隠したりして、生きていってほしくないから。
あたしにも、あなたにも。
I AM THAT I AM やんか。
もしこれを読んでいるあなたが、孤独だったらあたしに教えてほしい。
あたしに、ハグさせてほしい。
別にセクシャリティのことなのかとか関係なく、あなたの琴線に触れたなら。
ちなみに「琴線」を、“きんせん”って読むのさいきん知った。ずっと“ことせん”って読んでた。
Love is Love.