承認欲求とかのうんぬん
承認欲求がなくなった。
そう、言いながらこうして文章を綴っていることはおかしいのかもしれないのだけれど。とにかく、こう見えて承認欲求がなくなった。SNSは大好きだけどね。
去年までのあたしはとにかく誰かに見ていてほしかった。焦燥感に駆られて、誰に宛てた言葉なのかさえ、わからないものが多い気がする。何かを表現したい欲だけでないく、それをだれかに見られていたかった。だから読み返すとどこか不自然なものもあったりする。伝えたいことが結局上っ面で、ちぐはぐだったりする。今更読み返して「気づかれないといいな」と思ったりした。
そんなふうに何かしらの評価を得たくて形にしていたあたしが、今は純粋に表現を楽しんでいる気がする。好きなことを気ままにして、それに賛同してくれる人がいたら、「なお、うれしい」それだけに尽きる。
それに文字を綴っていてよかったと思うのは、日ごろからこうして考えを吐き出すことで、読んでくれている人(きっとほとんど気の知れた友達だと思ってる)
が、あたしのことを理解しやすいとゆうこと。「こいつは相変わらずやな」とあたしのいないところで、想ってくれているような気がしてうれしい。
そこのあなた、これを読むことに時間を割いてくれて、どうもありがとう。
大切なものは、多ければ多いほうがいいというものではない。「いいね」と言ってもらえることもそれに然り。そりゃあ、それで何か大きなアクションがあれば、やぶさかでもないんだけれどもさぁ。そんなことはうぬぼれているし、好きなことを好きにしていることこそがそもそもの創造の幸せのはず。
落ち着いて、こう感じれるようになったのは、あたしの中の何が変わったのか。それはあんまりわからないのだけれど、「普通が幸せ」そんなふうに感じる自分の変化に驚いている。
日常を愛でることができる感性を、承認欲求で捻じ曲げたくないと思った。
「こう書いたらよく思ってもらえるかな」ー 去年までのあたしは、間違いなくそういう気持ちがお風呂の底にの塵のように沈んでいて、そんな湯水の中文字を綴っていた。そう思いだすと、過去のことは恥ずかしくなるんだけど、それもまとめて「日常を愛でる」のです。
振り返れば小さな変化がある。
気づかないうちは、いつものあたし。
気が向いたときに過去の自分をこうやって救いにいこう。
いまの自分がオッケーならば、過去にもオッケーがだせるから。