呼吸器のようなもの

滋賀生まれ射手座。日々感じたことの備忘録。

うれしくてさみしい日

 

 

 

今週末は生まれて初めてのことを経験した。

 

 

妹の苗字が違う苗字になった。

 

つまり、結婚した。

 

 

まだ実家にいるし、結婚式もないから実感は湧かないだけども、やっぱり感慨深いものがあるよなあ。

 

おかんはきっともっと感じるものがあるんだろう。

 

 

夏にはあたらしい家族がやって来て、あたしを叔母にしてくれるし、「生まれて初めて」が多い年になりそう。

 

 

特になにも心配してないから、あたしは笑顔で送れる。

そんな人を選んだ妹はえらい。

 

 

この先何があるかわからないし、

家族とは脆くて強いものだということを、あたし達はよく知っているほうだとおもう。

 

 

それでも、何があっても大丈夫だし、家族はいつまでも家族だから。

 

 

 

妹が家を出る日には、ささやかな門出の言葉くらい贈ってやりたいな。

あたしにはその程度しかできないから。

 

 

 

妻となり、母となっていく妹。

うちの家族はあたし以外2人とも母になったらしい。

 

 

昨日のことのようにあたまに浮かんでは消える思い出が、

これからもずっとずっと増えていく。

 

 

それを記録するのが、あたしの役目のひとつなのかもしれないね。

 

 

 

ほんとうにおめでとう。

 

 

 

 

 

 

ベランダデスクにて

こんばんは。

あんまり月が綺麗だから、部屋を真っ暗にしてベランダにパソコンを置きながら、月明かりで文字をタイプしています。

お風呂上がりの火照った身体に、冷えないように毛布を巻いて、顔だけシャキーンとしている感じ。

春の空気は澄んでいるけど、どこか気怠くて、親近感が湧く。

 

いろいろな状況の変化がありました。

まだ心が着いていくことができなかったり、うまくいかず自己嫌悪で落ち込んだり悔しがったりしています。

悔し涙が止まらなかった昨日の深夜、大切な人は「書くことをやめるな。」とあたしに教えてくれました。想定外の言葉だったけれども、「ああ、そうか」とどこかで納得したのでした。

 

誰かに向けた言葉をずっと書いていた時期もありました。(このブログの最初のほうとか)

でもそれはただ自己肯定感が欲しかっただけなのかも、と今は思います。

誰のためでもなく、今や未来の自分のために言葉を綴っていきたい。

自分がちいさく思えたこと、うまく言葉にできなかったこと、後からでもいいからちゃんと形にしてやりたい。自分が自分のことをわかってやっていれば、それでいい。

 

今日のミユと、昨日満月だったきみとのやくそく。

 

いつもいつもありがとう。

お月さんの存在は、あたしにとって何でかめちゃくちゃ大きいのです。

 

ふかいふかいよるを、今晩もてらしておくれ。

ひさしぶりのなんでもない今日

ずいぶんおひさしぶりになってしまいました。

今日は春めいた天気だけど風が冷たくてきもちいい。

この季節になると高木正勝さんばかり聴いていて、これで花粉症さえ完治すれば完璧なのになと思います。

世の花粉症のみなさん、お疲れ様です。

 

やどかりのような生活が相変わらず続いているあたしけれども、

この間奄美大島へ5日間ダラーリしに行ってきました。

とっても神秘的な体験が多かったので、ブログに残していこうと思っています。

ちなみにお世話になった宿は「やどかり荘」って言うんですよ。かわいいでしょ。

黄昏たいひとにはとってもオススメのシマ。

 

春分の日を界に、すこし気持ちが軽くなってきたかな。

なにもかも、きっと春のおかげです。

人間もそもそもは動物なんだから冬は蓄え、じっとしていたいのが本能なんだと結構本気で思います。

 

だから布団から動けなかったことも、その日その日の冬眠だと思えば。(笑)

 

 

今朝出会ったことば。

ー 自分を追求し「知りたい」と思うことこそ自分への愛 ー

 

だそうです。

確かに自分を愛そうとすることは難しいけれども、いつだってもっと自分のことを知りたいと思っているあたしがいて、それは自分に向けられた愛の一つなのでしょう。

試行錯誤も含めて、使命を全うするために潜在意識にくみこまれているのかも。

 

ぼんやり考え事をしながら、常に自分の中にスペースをつくっておきたいです。

いつだっておもしろいことにジャンプできるように。

 

今日もにこにこしていきましょう〜〜

 

 

その言葉は誰のもの

いろんな文章を読んでいると、初めて出会ったみたいじゃない文章とかたまにありません?

既視感があるというか。

「それ、あたしも思ってたことやん!」って先に表現されてしまったがっくり感があったりとか、好きな人と同じなら嬉しかったり。そんなことがあたしにはたびたびあります。

 

この間はあたしがとある人へ話した言葉そのものが、その人の言葉となっているところにソーシャル上で出会いました。その時あたしは、なんだかもやっとした気分になってしまって。なんか、勝手に盗まれたみたいな気持ちになったんですよねえ。

なんでもない会話だったのに、あたしという人間はなんて器が小さいのか(笑)時間が経てばその言葉はあたしのものでもないことに気づけるんですが、その時はモヤモヤ。

 

 

こんな出来事が教えてくれたこと、

「あたしの言葉は本当にあたしのものか???」

 

 

口や指先から出る言葉たちに名札がついているわけでもない。あたしだって誰かの言葉を「盗作」しているのかもしれないなあって。そう思うとぞっとしました。

日々読んでいる本、ソーシャル上で見かける友達や知り合いの投稿・・・・。

何気なく目を通しているうちに、人の言葉が自分を創り上げていく怖さがあると思ったのです。

あたしが生きてきた上で必要不可欠だった影響はたくさんあるし、それは絶対必要だったものたち。でも、その言葉たちに自分を侵されてはいけない。

 

何事も上達への近道は真似事だというけれど、心から湧きあがってこない言葉の真似事など自分をばかにしていると思いました。

 

理論的でも感情的でも、どちらでもなくていい。

わっと湧いた言葉だけを大切にしたい。

頭からひねり出すようなことはしたくないなあ。

 

 

そんなことをぼんやり思いながら、書いたり読んだりしています。

 

 

 

言葉を殺すな

 

少し前に、自転車で横断道の信号無視した女の子2人を、すれ違いのおばちゃんがすごい怒鳴って叱っていたところを見た。

大阪のおばちゃんて、強いなあ。なんて思ったりしながら。

 

 

相変わらずいつでも色んなことがあるけれど、最近それに輪をかけて、色んなことがある。想像もつかない「ま坂」なことばかり。

 

自分自身や、家族もばたばたしていて、気持ちが落ち着いていないのか、ほんっと世の中のおかしいと感じるところによく出会う。

工事中の駐車場でおじさんがちゃんと誘導してくれなくて滞っていたり、

予定がまさかって感じで変わったり、

とある友達とはじめての小さいケンカをしたり、

病院の先生が妹の薬の処方を間違えたり。(これはブチ切れた)

とりあえず、「あれ?」と感じることが多くて。

 

その度にどこかで出会った言葉を思い出す。

ー思ったことを言わないということは、その時自分を殺している。ー

これは「イエス」とか「ノー」だけじゃなくて、「こう思う」とか「だいすき」とかハグすることとか、全部のこと。

 

人懐っこい性格なので、あまり会話に困ったことはないけれど伝えることの難しさを考えている日々。

最近あたしの身に起きた「へんなこと」に対して、自分の気持ちを殺さずにいたい。不信に感じたときは、ちゃんと向き合いたい。「大人になったら誰も叱ってくれない」ってよく言うが、これは全然好きじゃない。

 

 でも正直なところ、あれは言いすぎたと思うこともある。そう思っているときは、たいてい心のままに出てきた言葉を、無意識に吐き出しているとき。あとではっと目がさめる。つまり自分をちゃんと制御できていないわけで、溜まったものが途端に溢れ出す。

自分は素直な方だと思っていたけれど、結局普段流れていないから溜まるのだ。平和的なオープンマインドであることは、ほんとうに1つずつ立ち止まりその度に自分を信じてやらなくてはならない。誰でも持ち合わせている陰の部分、どうにもできないのならまずは自分がそれに開き直ってそれを形にしよう。

 

「ああ言えばよかった」

「言いすぎた」

そんな振り返りはきっとずっと続く。他者へ、自分へ、心に愛がある限り。

 

 

今日はめずらしく少し短いですが、心の整理はここまで。

最近、起きたらヨガの太陽礼拝のポーズを2回だけやります。これを習慣化したい。

 

 

1週間SNS断ちしてみました。

 

SNS断ちをやってみよう」と思いついたのは12月21日のこと。

翌日の22日から29日まで、

facebook

Instagram

twitter

このSNSトリオのアプリを携帯から消しました。

 

そもそも、携帯を触っている自分があんまり好きじゃなかった。なんか、時間を消費しているような気がして。やりたいことだって、挑戦してみたいことだってたくさんあるのに気づけば電車でも携帯を触っている。携帯は私の生活に近すぎる存在になっていました。中学生から携帯を持たせてもらって、形は変われどずっとネット上での繋がりが存在してきていました。だからSNS断ちも、1週間も本当にできるのかと半信半疑のままスタート。そうそう、あたしがソーシャル上に登場しなくなったら誰かが心配する気がして(笑)、さよなら宣言もしておきました。

 

始めてみるとすぐにいくつかのことに気づけました。それに、意外と大変じゃなかった。電車では本を読み、家では観たかった映画をゆっくり観る時間を確保できました。大切な人に手紙だって書けました。ただ想定外だったのはがっつりYouTubeにハマったこと。「いや、これもソーシャルやん」と思いながらYouTubeは自分が投稿している訳でも、知り合いがいる訳でもないので『テレビ』の仲間にすることにしました。普段テレビ観ないからいっか、って感じで。

ちなみにあたしがハマったユーチューバーは「東海オンエア」さんです。めちゃくちゃにおもしろい。

 

以下、あたしがこの1週間に気づいたメモ。

 

 

ー携帯を触ることは身体の生活を営むことではなく、娯楽の一部であること。ー

あたしの場合、無意識に携帯観てる時間があまりにも多くて。トイレ行くみたいに無意識にInstagram見てたんですよね。純粋にやべーと思いました。

 

ー多くの情報を眺めてきた1秒1秒が、だいたい無駄。ー

「今日はあの記事がよかったなあ」なんて気持ちを寝る前まで引きずることなんてほとんどなくて、何をみてたかなんてほとんど覚えてない。

もちろん感動したり嬉しくなったり、為になることもあるけどそれってあったらラッキーくらいのレベルなのかも。

 

ー題名のない料理とはちみつレモン。ー

この期間にすごい風邪をひいて。そのままフラフラ職場に行ったら、お姉さんがあったかいスープみたいな煮物みたいな料理とはちみつレモンを作ってくれたんです。こんなに心があったかいことはないと久しぶりに思いました。目の前の人の優しさに対して、どこか他人事になっていた自分がいたかもしれません。

 

 

とまあ、いいことずくめだったんですが最後の方はちょっとさみしかったです。遠いけれど、SNSがあるからお互いを認知し合っている人のこととか、よく考えました。元気にしてるかなーって。そう思うとやっぱりSNSの恩恵もすごいのです。1週間ぶりにアプリをインストールしなおしたら、もうみんなのクリスマスのことばっかりで。あったかい気持ちと、空腹に山盛りラーメン食べたみたいな気持ちになりました(笑)

 

あたしはこれを機に、自分の時間の使い方について見直せたかも。1週間SNS断ちした後は1週間風邪で寝込み、何かの毒出し期間だったのかもしれません。結局はあたしが甘いだけなのです。やっぱりあたしはSNS好きなので、うまい距離感で付き合っていきますね!ただ、自分の感じたことをすぐアウトプットしてしまうのは、即席ラーメン作るふうにも思うようになりました。だから、今年は纏まった文章をここで綴っていけたらと思います。

 

読んでくれている人、今年もよろしくね。

いつも有難うございます。

 

実優

うまれて初めてフルヌード撮影したその後のおはなし

こんにちは、

10月に撮影をしてから2ヶ月後ひょんなことから変化があったので、その後を記録しておきます。

 

知り合いのブランドがスニーカーを作ったことをfacebookで知りました。

そこでお話をいただいたのがその靴を、フルヌードで履くというモデルです。

おもしろい人たちなので、そもそもの発想がネタ。

自分の中で密かに yes to everything  とテーマをもって生活していたので、思い切って協力させていただいたのです。

 

何度か行ったことのあるカフェがスタジオになっていて、久しぶりと初めましてを交わして早々に撮影へ。自分のメンタルのタフさには我ながら驚くけれど、何も緊張せず気づいたら脱いでた。ほんでスニーカー履いてた。真っ白のシーツの上に横たわってすっぱだかの涅槃像みたいなあたし。初めてのあたしにプライドも自信も何もないので、こまかくイメージを教えてもらいながら撮ってもらいました。シンプルに楽しかったし、撮った写真はやっぱり面白かった。じぶんのすっぱだかの写真をまじまじ見ると、羞恥心とおバカ具合に呆れて笑うしかない。でも、最中もその後も後悔は全くしていませんでした。

その1週間後にまた連絡をいただき、今度はアパレルのモデルをさせてもらうことになりました。今回は、これから劇団四季出ますみたいながっつりのメイクで。もちろんそんなことあたしにできるわけないので、同い年の女の子が仕上げてくれました。前回と違ったところはいろんな服を羽織って撮影したこと。数も多かったからがっつり。クールなイメージだったのでなるべく真顔でがんばりました。気の抜けた真顔と、モデルさんの真顔は全然違うから本当にすごいです。顔から足の指先まで、自然に装うということの難しさ。こんなことも、実際その立場になってみるとわかることなのかも。完成した写真を見たときの恥ずかしさは、劇団四季バージョンのほうが大きかったです。自分の知っている自分じゃなさすぎて、もう(笑)

 

 

ご協力させてもらうことを決めた時からずっと思っていたことは、

自分の価値なんてない。

ていうか、自分の価値は自分で問うものではない。

 

誰かに求められて、それが自分の中で嫌じゃないなら適役のひとつなのかもしれません。「嫌じゃないか」この判断にはシビアになったほうがよくて、嫌なものなら断るべきだと思います。自分が「まさか」と思うものこそ実は好きだったりするのかなあ。あたしのフルヌードはそれに近いので。もともと女性らしいことが苦手で(それは今も)カメラの前でポーズをとるなんて思いもしなかった。

 

結局自分の知っている自分なんてそんなもん。

 

これからどうなるのか、親があたしに向けてくれていたような信じる気持ちをもって自分を応援してやりたいものです。

 

 

f:id:thanksallmiyu:20171219010643j:image